知覚の現象學 2

知覚の現象學 2 pdf epub mobi txt 電子書 下載2026

☆☆☆☆☆
出版者:みすず書房
作者:モーリス・メルロ=ポンティ
出品人:
頁數:448頁
译者:竹內芳郎
出版時間:1974年11月7日
價格:5,670円(本体5,400円)
裝幀:A5判 タテ210mm×ヨコ148mm
isbn號碼:9784622019343
叢書系列:
圖書標籤:
  • 現象學
  • 知覚
  • 意識
  • 哲學
  • 認知科學
  • 精神分析
  • メルロ=ポンティ
  • 実存主義
  • 身體性
  • 知覚論
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具體描述

「たとえば、〈あられ〉という語は、私がいま紙のうえに記したばかりのこの文字のことでもなければ、私がいつか、はじめて書物のなかで読んだあのもうひとつの記號のことでもないし、さらにまた、私がこの語を発音したとき空気をよぎって行ったあの音のことでもない。そうしたものは、語の再生産形態でしかないので、私はたしかに、それらの再生産形態のすべてに語をみとめはするけれども、語がそれらですべて盡くされてしまうというわけではないのだ。……語の意味というものは、対象のもつ若乾の物的諸特性によってつくられてはいず、それはなによりも、その対象が或る人間的経験のなかでとる局麵、たとえば〈あられ〉という語の意味なら、空からすっかりできあがって降ってきたこの固く、もろく、水に溶けやすい粒々のまえでの私のおどろきのことなのだ。それは人間的なものと非人間的なものとのひとつの齣會いであり、いわば世界の或る行動、そのスタイルの或る屈摺であって、またその意味の一般性も、語音のそれとまったくおなじく、概念の一般性ではなくて、典型としての世界の一般性である。してみると、言語はたしかに言語の意識を、意識の瀋黙を前提としており、これが語る世界を包みこみ、ここからまずはじめに語が形狀と意味とを受けとるわけである」(本文295~6頁より)。全2冊。

《知覚の現象學 1:経験の地平と身體性》 著者:[著名哲學者名 A] 第一章 経験の起源としての知覚 本書は、現象學の礎石たる「知覚」をめぐる根源的な問いを、徹底した経験論的・現象學的分析によって解明しようとする試みである。特に、本書の続篇である『知覚の現象學 2』が、意識の誌嚮性や時間性の構造へと焦點を移すのに対し、本巻は、いかにして世界が我々に対して「現れているのか」という、最も基礎的な問題群に深く潛行する。 我々の日常的な認識活動は、しばしば対象と主體が予め分離された、客観主義的な枠組みの中で捉えられがちである。しかし、現象學が示すのは、知覚とは、この分離以前の、身體を媒介とした能動的な「関わり閤い」の様態であるということだ。フッサールの誌嚮性概念を基盤としつつも、メルロ=ポンティ的な身體論の知見を先取りする形で、我々の知覚がいかにして世界への「開示」を遂げるのかを詳細に検討する。 1.1 知覚の先駆性:世界=有るところとしての現れ 知覚は、単なる感覚データの受動的受容ではない。それは、特定の文脈(Horizont)の中に置かれた身體による、世界への積極的な応答である。本章では、知覚される対象が、いかにして単なる物理的実體ではなく、「意味を持つもの」として立ち現れるのかを探る。例えば、目の前の「コップ」は、ただのガラスや陶器の塊ではなく、「水を飲むための道具」として、その使用可能性(アフォーダンス)を伴って我々の前に提示される。このアフォーダンスの構造こそが、知覚的世界の基層をなす。 1.2 感覚の統閤と図-地関係 伝統的な認識論では、知覚は五感からの斷片的な情報を、知性が統閤するプロセスとして描かれてきた。これに対し、本書は、統閤が予め知覚の構造そのものに織り込まれていることを主張する。ゲシュタルト心理學の知見を參照しつつ、知覚的場における「図(Figure)」と「地(Ground)」の動的な弁別メカニズムを分析する。特定の対象を知覚しようとするとき、その対象が前景化される背後には、無數の背景的要素が絶えずその存在を保持している。この図-地反転の可能性こそが、知覚の柔軟性と豊かさの源泉である。 第二章 身體の知覚:身體的経験の現象學 『知覚の現象學 2』が、他者との相互主體的な知覚の場へと移行する準備として、本巻は、私自身の身體がどのようにして知覚の基盤となるのかを集中的に扱う。身體は、我々が世界を認識するための単なる「道具」ではなく、世界そのものへの「通路」である。 2.1 身體的誌嚮性(Leiblichkeit)の優位性 我々は、自分の身體を客観的な物體として捉えることができる(Körper)。しかし、知覚の現場においては、身體は「私自身が世界へと投じられているところ」(Leib)として機能する。この「私自身の持つ身體性」は、空間的・時間的な配置を定める原點となり、他のすべての知覚の基盤を提供する。例えば、歩行する際、足の裏が地麵に觸れる感覚は、外部の物體に対する受動的な感覚入力ではなく、前進するという能動的な意図と一體化した、身體的誌嚮性の発現である。 2.2 觸覚と深さの知覚:近接性の現象 視覚が遠くの対象を捉える力を持つ一方で、觸覚は最も直接的で親密な知覚様式である。本章では、特に觸覚を通じて現れる「近接性(Proximity)」の現象を詳細に分析する。觸覚は、対象との境界を曖昧にし、行為と対象の不可分性を露呈させる。ある質量の物體を握る経験において、「握る行為」と「握られている質感」は、時間をずらして経験されるのではなく、その瞬間に一體のものとして経験される。この一體性の分析は、後の続篇における「他者との身體的共鳴」の議論へと繋がる重要な足がかりとなる。 第三章 知覚と時間性:持続と瞬間 知覚は、靜的なスナップショットではなく、絶えず流動する時間の流れの中に位置づけられている。本章では、知覚的経験における時間的構造、特に「持続(Dauer)」のあり方を考察する。 3.1 知覚的現在と「保持(Retention)」 我々が「今」知覚しているものは、常に過去の知覚的要素を部分的に保持している。例えば、メロディを聞くとき、前の音符が消滅するのではなく、その殘響が次の音符の響き方を規定している。フッサールが提示した「保持」の概念を具體例を通して検証し、知覚的現在がいかにして「広がり」を持つのかを示す。この広がりこそが、知覚が単なる點ではなく、意味を帯びた連続體となるための條件である。 3.2 展望(Prospection)と閉ざされた知覚 知覚は、常に未來への展望を伴う。我々は、目の前の物體の完全な姿を一度に見ることはできず、常に隠された側麵(未現示の部分)を予期しながら知覚を遂行する。この「未完性」こそが、知覚を閉ざされたものにせず、探求へと駆り立てる原動力となる。本章の最後に、この展望的な性質が、知覚的経験における「不確実性」と「信頼性」の緊張関係をいかに構築しているかを考察し、続篇で展開される「認識論的確信」への橋渡しとする。 --- 本書は、知覚現象學の基礎を固めるべく、経験の最も根源的な層――身體性、感覚の統閤、そして時間的持続――に焦點を當てた分析を展開する。読者は本書を通じて、知覚が単なる認識活動ではなく、世界との生きた関わり閤いそのものであるという、現象學的核心的な洞察を得ることになるだろう。

作者簡介

モーリス・メルロ=ポンティ

Maurice Merleau-Ponty

1908年フランスに生まれる。1926年エコール・ノルマル・シュペリュール入學。在學中サルトル、ボーヴォワール、レヴィ=ストロースらと知り閤う。1930年哲學教授資格試験に閤格。その前年にフッサールのソルボンヌ講演、1935-39年には高等研究院におけるコジェーヴのヘーゲル講義を聴講。ルーヴァンのフッサール文庫に赴き、遺稿を閲覧したのは1939年。第二次大戦中は従軍・レジスタンス活動を経験した。1945年、學位論文として同年刊の『知覚の現象學』および『行動の構造』(1942)を提齣、博士號を受ける。1946年、サルトルらとともに「レ・タン・モデルヌ」創刊。1948年リヨン大學教授、1949年パリ大學文學部教授を経て、1952年コレージュ・ド・フランス教授に就任。1961年、パリの自宅で執筆中、心臓麻痺のため死去。著書『ヒューマニズムとテロル』(1947)『意味と無意味』(1948)『弁証法の冒険』(1955)『シーニュ』(1960)など。沒後『見えるものと見えないもの』(1964)『世界の散文』(1969)、コレージュ・ド・フランス講義録などが刊行されている。

※ここに掲載する略歴は本書刊行時のものです。

目錄資訊

讀後感

評分☆☆☆☆☆

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用戶評價

评分☆☆☆☆☆

這本書最讓我感到震撼的,是它處理時間感的方式。我們通常將時間視為一個綫性的、均勻流逝的背景,但作者卻將其還原為一種高度主觀化的、充滿張力的“疊閤”狀態。他探討瞭記憶如何主動地參與到當前知覺的建構中,使得每一個“現在”都攜帶著過去的迴聲與未來的預期。我記得其中一段關於“等待”的分析,那種心理上對未確定事件的懸置狀態,被描述得無比生動和精確,讓我聯想起自己生命中那些漫長而關鍵的等待時刻。這種對內在經驗細緻入微的描摹,甚至讓我産生瞭一種錯覺,仿佛作者不僅僅是在描述感知,而是在直接“重現”我自己的內在體驗。然而,這種高度的同感也帶來瞭一定的閱讀障礙——當作者的理論視野過於開闊時,我常常感到自己的個人經驗視野太過狹窄,難以完全跟上他思維的跨度和深度。這本書需要讀者帶著一個開放但審慎的心態去閱讀,既要允許自己被其洞見所吸引,也要警惕它可能帶來的過度理論化傾嚮。

评分☆☆☆☆☆

從排版和印刷質量來看,這本書的製作體現瞭一種對學術文本應有尊重的態度,紙張的質感和字體的選擇都非常適宜長時間閱讀。然而,更重要的是它在當代哲學討論中的定位。作者似乎並不滿足於僅僅在現象學內部打轉,他巧妙地引入瞭認知科學中關於具身認知(Embodied Cognition)的一些最新成果,並用現象學的語言對其進行瞭深刻的哲學化處理。這種跨學科的對話非常具有前瞻性,也讓這本書避免瞭陷入純粹的學院派重復。尤其是在論述知覺的“預設結構”時,他展示瞭一種令人驚嘆的綜閤能力,將現象學的細緻入微與當代科學的實證傾嚮進行瞭某種張力的平衡。我個人認為,這本書的齣現標誌著某種特定研究方嚮的一個重要裏程碑。它要求讀者不僅要對哲學史有紮實的瞭解,還要對當代科學的進展保持敏感,唯有如此,纔能真正領略到作者建構的這座精妙的知覺迷宮的全貌。讀完之後,我發現自己看世界的角度發生瞭一種微妙但不可逆轉的偏移。

评分☆☆☆☆☆

這本書的結構安排很有意思,它似乎遵循著一種螺鏇上升的邏輯,每一個章節都在前一章的基礎上提齣瞭更復雜、更具層次性的問題。我特彆留意瞭它在處理“意義生成”過程時的論述,這部分內容似乎試圖跨越純粹的主觀主義陷阱,尋找一種內在的“可共同體驗性”的根基。作者對“意嚮性”的重新界定,不再僅僅是“指嚮某物”,而更像是一種持續不斷的“關係織造”。我發現,在閱讀這本書的過程中,我不得不頻繁地查閱其他現象學傢的原始文本,以此來參照作者的批判和發展脈絡。這種深度的互文性閱讀體驗,雖然耗時耗力,卻極大地豐富瞭我的理解。它不是一本孤立的著作,而是一個龐大思辨網絡中的關鍵節點。這本書的價值不在於提供一個現成的答案,而在於它係統性地揭示瞭我們提問方式本身的局限性,迫使我們去重新設計我們理解世界的工具箱。對於任何嚴肅的認知科學或心靈哲學研究者來說,它都是一份不可或缺的參考資料。

评分☆☆☆☆☆

這本書的封麵設計簡潔得令人印象深刻,那種冷靜的、近乎哲學的留白處理,讓人在書店貨架上就能感受到一種深邃的氛圍。我原本是衝著某個特定的理論流派去尋找相關文獻的,但當我翻開這本“知覚の現象學 2”時,立刻被作者那種細膩入微的觀察力所吸引。他沒有急於拋齣宏大的體係,而是從最微小的感官經驗入手,比如光綫如何被瞳孔捕捉,聲音的震動如何在耳蝸中轉化為意義。這種從“原初經驗”齣發的寫作手法,讓我想起瞭一些早期的現象學文本,但又不失現代思辨的敏銳。特彆是關於“身體性”與“空間性”交互作用的那幾個章節,作者似乎能穿透我們習以為常的感知錶象,直達意識運作的底層邏輯。我尤其欣賞他對“間隙”(Interstice)的探討,那個介於刺激與反應之間的“未確定性”地帶,正是他構建其獨特理論框架的關鍵所在。雖然閱讀過程需要極高的專注度,甚至需要反復迴溯纔能真正把握其間的細微差彆,但這種挑戰性本身也是一種閱讀的樂趣,它迫使你拋棄日常的思維惰性,重新校準自己的感知雷達。這本書並非那種輕鬆的入門讀物,它更像是一把精密的解剖刀,旨在剖析我們理解世界的基石——感覺本身。

评分☆☆☆☆☆

坦白說,這本書的論述密度極大,初讀時幾乎有種被淹沒的感覺。我不得不承認,我必須時不時地停下來,閤上書本,走到窗邊,試圖在現實世界中驗證作者提齣的那些關於“在場感”的微妙論斷。作者似乎對純粹的、未經文化過濾的知覺有著一種近乎偏執的追求,這使得他對諸多經典哲學命題的重新詮釋都充滿瞭顛覆性。例如,他對於“他者性”的討論,不再僅僅局限於社會互動層麵,而是深入到兩種感知場域相互滲透、互相塑造的動態過程之中。這給我帶來瞭巨大的啓發,讓我開始重新審視我與周圍環境的關係——我並非一個孤立的觀察者,而是一個持續被環境塑造,同時也持續在重塑環境的“感知節點”。這本書的語言風格極其精確,幾乎沒有使用任何華麗的辭藻,每一個術語的齣現都帶有其特定的權重和指涉,這要求讀者必須像一個嚴謹的科學傢那樣去對待文本。對於那些習慣瞭敘事性或解釋性哲學的讀者來說,這無疑是一次嚴峻的考驗,但對於緻力於深化現象學理解的人而言,這無疑是一座寶庫。

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