神皇正統記 在线电子书 图书标签: 日本史 日本 日本研究 東國英華 得到听书 h历史文化 4星 想读;;
发表于2024-11-25
神皇正統記 在线电子书 pdf 下载 txt下载 epub 下载 mobi 下载 2024
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评分“万世一系”的思想支柱:神道教,佛教,程朱理学。
评分得到听书: 日本天皇能够万世一系,背后既有思想观念上的原因,又有现实政治中的原因。就思想观念来说,日本天皇背后有三股思想力量在加持:神道教、佛教和程朱理学。神道教将天皇塑造为天照大神的后裔,佛教将天皇装扮成大日如来的化身。日本化的程朱理学则强调了天皇的道德优越性,同时树立了忠君爱国的思想。 就现实政治来说,日本历史上一直存在各派政治势力的争斗。先是公卿贵族和武士阶层的争斗,后是武士阶层内部各地大名之间的争斗。任何一方要想取胜,都需要借助天皇这面招牌。同时,任何一方都不能像中国的秦始皇那样,取得压倒性的优势,然后取天皇而代之。所以,天皇家族也就得以万世一系了。 简明日本史:大化改新~镰仓幕府~南北朝~室町幕府~战国时代~织田信长~本能寺之变~丰臣秀吉~德川家康~江户幕府~明治维新
评分天皇如何成为万世一系的神
评分日本皇国史观的理论基石。所谓“正统”,既指血统上的“嫡亲”,也指道德上的“正理”。 北畠把神道、佛教、儒学各种思想加以整合,作为装点其神国思想的工具。儒家思想被直接拿来用作“天意”“神敕”,认为儒学是自古以来的治国安民的人之常道,“我神国本有其训传”。作者作为“文抄公”的水平可谓一流,能够非常自如地摘抄中国文献,并将其转化为称颂日本的描述。
北畠 親房(きたばたけ ちかふさ)は鎌倉時代後期から南北朝時代の公卿。著書の『神皇正統記』で名高い。
正応6年(1293年)6月24日、生後わずか半年で叙爵。徳治2年(1307年)11月、左少弁に在任の際、清華家の北畠家よりも家格の低い名家出身の冷泉頼隆が弁官となったことに憤激して職を辞した。自らの家格に対する強烈な自負がうかがわれる。延慶元年(1308年)11月、非参議従三位として公卿に昇進。延慶3年(1310年)12月、参議に任じられ、翌応長元年(1311年)7月に左衛門督に任じ検非違使別当を兼ねた。同年12月、権中納言に昇進する。
後醍醐天皇が即位すると、吉田定房・万里小路宣房とならんで「後の三房」と称される篤い信任を得た。後醍醐天皇の皇子世良親王の乳人をゆだねられたほか、元応2年(1320年)10月には淳和院別当に補せられ、元亨3年(1323年)1月、権大納言に昇進し、同年5月には奨学院別当、正中2年(1325年)1月には内教坊別当を兼ねて、父祖を超えて源氏長者となった。元徳2年(1330年)、世良親王の急死を嘆いて38歳の若さで出家し、いったん政界を引退した。法名は宗玄。正中の変にはじまる後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画には加担してはいなかったようである。
鎌倉幕府が倒れ後醍醐天皇による建武の新政が開始されると、再び政界に復帰したが、後醍醐天皇の専制政治には批判的で、必ずしも表舞台に立ったとは言えない。奥州駐屯を命じられた長男の顕家に随行し、義良親王(のちの後村上天皇)を奉じて陸奥国多賀城へ赴く。建武2年(1335年)、北条氏の残党による中先代の乱が起き、討伐に向かった足利尊氏がそのまま建武政権から離反すると、尊氏を討伐するために京へ戻り、尊氏に京都を占領されると、京都を逃れた後醍醐天皇が吉野で開いた南朝に従い、北朝に対抗する。
延元3年/暦応元年(1338年)に顕家が戦死した後、親房は伊勢国において度会家行の協力を得て南朝勢力の拡大を図る。ここで親房は家行の神国思想に深く影響を受けることになった。ただし、家行の唱えた伊勢神道自体に対しては批判的であったといわれている。
関東地方に南朝勢力を拡大するために結城宗広とともに、義良親王・宗良親王を奉じて伊勢国大湊(三重県伊勢市)から海路東国へ渡ろうとするが、暴風にあい両親王とは離散し単独で常陸国へ上陸。はじめは神宮寺城(現在の茨城県稲敷市)の小田治久を頼り、佐竹氏に攻められ落城すると阿波崎城、さらに小田氏の本拠である小田城(現在の茨城県つくば市)へと移る。陸奥国白河の結城親朝はじめ関東各地の反幕勢力の結集を呼びかけた。
この時期に『神皇正統記』・『職源鈔』を執筆したとされている。
興国元年/暦応3年(1340年)、北朝方が高師冬を関東統治のために派遣すると、小田氏に見限られた親房は関宗祐の関城(現在の茨城県筑西市)に入り、大宝城(現在の茨城県下妻市)の下妻氏、伊佐城(筑西市)の伊佐氏など常陸西部の南朝勢力とともに対抗する。親房の常陸での活動は5年に渡った。しかし、南朝方に従った近衛経忠(南朝の関白左大臣)が藤氏長者の立場で独自に東国の藤原氏系武士団の統率体制を組もうとしたこともあって、親房の構想は敵と身内の両方から突き崩される結果となり、興国4年/康永2年(1343年)に両城が陥落すると吉野へ帰還している。これ以降、すでに死去していた後醍醐天皇に代わり、まだ若い後村上天皇を擁して南朝の中心人物となる。主に摂関や天皇の外戚・生母などに与えられる准三宮の待遇が、一介の「大納言入道」に過ぎない親房に与えられたことは、南朝におけるその権勢を物語る。
正平3年/貞和4年(1348年)に四條畷の戦いで楠木正行ら南朝方が高師直に敗れると、吉野から賀名生に落ち延びる。観応の擾乱に際して、足利尊氏が南朝に降伏して正平一統が成立すると、これに乗じて一時は京都と鎌倉の奪回にも成功した。正平9年/文和3年(1354年)4月に賀名生で死去。親房の死後は南朝には指導的人物がいなくなり、南朝は北朝との和睦に傾いていく。
阿部野神社(大阪市阿倍野区)や霊山神社(福島県伊達市)に顕家と共に祀られている。墓は終焉の地賀名生にある。また、室生寺にも親房のものと伝えられる墓がある。
←http://ja.wikipedia.org/wiki/北畠親房
『神皇正統記』(じんのうしょうとうき)は、南北朝時代に公卿の北畠親房が、幼帝後村上天皇のために、吉野朝廷(いわゆる南朝)の正統性を述べた歴史書である。
はじめに序論を置き、神代・地神について記している。つづいて歴代天皇の事績を後村上天皇の代までのべている。伝本によりこれを上中下または天地人の3巻にわけている。その場合、序論~宣化天皇・欽明天皇~堀川院・鳥羽院~後村上天皇と区分している。
神代から後村上天皇の即位(後醍醐天皇の崩御を「獲麟」に擬したという)までが、天皇の代毎に記される。
君主の条件としてまず三種の神器の保有を皇位の必要不可欠の条件とする。だがその一方で、『仏祖統紀』や宋学(特に「春秋」・「孟子」・「周易」)の影響を受け、血統の他に有徳を強調している。従って、承久の乱を引き起こした後鳥羽上皇は非難され、逆に官軍を討伐した北条義時とその子北条泰時のその後の善政による社会の安定を評価して、「天照大神の意思に忠実だったのは泰時である」という一見矛盾した論理展開も見られるが、これも徳治を重視する親房から見れば、「正理」なのである。大町桂月は、これを「この一節、仁政を力説す。頼朝・泰時は虚にして、仁政は実なり。親房の頼朝・泰時を襃むるは、即ち仁政を襃むる也。千古の公論なり」と云っている。また治承・寿永の乱の混乱期に神器を欠いた状態で後白河法皇の院宣により行われた後鳥羽天皇の即位自体を否定していないという矛盾も指摘されている。
全体として、保守的な公家の立場を主張し、天皇と公家(=摂関家と村上源氏)が日本国を統治して武士を統率するのが理想の国家像であるとし、特に公家や僧侶を「人(ひと)」、武士を「者(もの)」と明確に区別しているところに彼の身分観の反映がなされていると言われる。その一方で、君臣が徳のある政治を守ってゆく事で、「正理」の元に歴史は誤った方向から正しい方向へと修正されるという能動的な発想を兼ね備えていた。
北畠親房が常陸国で籠城戦を繰り広げていた時期に執筆がなされており、手元にある僅かな資料だけを参照に書いているため、(当時知られていた)歴史的事実に関しての間違いも散見される。
執筆時期については、後醍醐天皇が崩御して、新帝・後村上天皇が即位した延元4年/暦応2年(1339年)の秋ごろであると言われている。後村上天皇に献上された書ではあるが、奥書には「ある童蒙」に宛てるとされており、天皇を童蒙扱いするのは有り得ないという指摘がなされている。これについては、本来は結城親朝に宛てたものであるが、後に改稿した上で後村上天皇に献上したものと言われている。
南北朝統一後、北朝正統論を唱える室町幕府の影響下に改竄や、続編と称しながら親房の論を否定する『続神皇正統記』(小槻晴富)が書かれた事もあった。だが、徳川光圀が「大日本史」で親房の主張を高く評価し、また親房からすれば、本来否定されるべき存在である筈の江戸幕府の中にも泰時の例などを引用して「武家による徳治政治」の正当性を導く意見が現れるようになった。
水戸学と結びついた「神皇正統記」は、後の皇国史観にも影響を与えた。だが、明治になってから逆に国粋主義の立場から儒教や仏教、異端視された伊勢神道の影響を受けすぎているという理由で、重訂という名の改竄(親房思想の否定)を行う動きも起こったが、これは定着には至らなかった。『神皇正統記』研究が再び興隆するのは、現実政治から切り離された、戦後暫くたってからのことである。
承久の乱について、神皇正統記には次のように記されている。
——源頼朝は勲功抜群だが、天下を握ったのは朝廷から見れば面白くないことであろう。ましてや、頼朝の妻北条政子や陪臣の北条義時がその後を受けたので、これらを排除しようというのは理由のないことではない。しかし、天下の乱れを平らげ、皇室の憂いをなくし、万民を安んじたのは頼朝であり、実朝が死んだからといって鎌倉幕府を倒そうとするならば、彼らにまさる善政がなければならない。また、王者(覇者でない)の戦いは、罪ある者を討ち罪なき者は滅ぼさないものである。頼朝が高い官位に昇り、守護の設置を認められたのは、後白河法皇の意思であり、頼朝が勝手に盗んだものではない。義時は人望に背かなかった。陪臣である義時が天下を取ったからという理由だけでこれを討伐するのは、後鳥羽に落ち度がある。謀反を起こした朝敵が利を得たのとは比べられない。従って、幕府を倒すには機が熟しておらず、天が許さなかったことは疑いない。しかし、臣下が上を討つのは最大の非道である。最終的には皇威に服するべきである。まず真の徳政を行い、朝威を立て、義時に勝つだけの道があって、その上で義時を討つべきであった。もしくは、天下の情勢をよく見て、戦いを起こすかどうかを天命に任せ、人望に従うべきであった。結局、皇位は後鳥羽の子孫(後嵯峨天皇)に伝えられ、後鳥羽の本意は達成されなかったわけではないが、朝廷が一旦没落したのは口惜しい。
— 「廃帝」より
また、後醍醐天皇の政策にも「正理」にそぐわないところがあると批判的な記事も載せている。
王朝が非常に古いという「万世一系」の主張は、日本の自国民を感心させるためだけではなかった。国家としては日本より古いが、歴代王朝は日本より短命とされた中国に感銘を与えるためでもあった。中国人は日本のこの主張を気にとめ、一目置いていたと言って良い。
日本人も、王朝の寿命の長短に関する中国との比較論に熱中した。『神皇正統記』では以下のように論じている。
——モロコシ(中国)は、なうての動乱の国でもある。…伏羲(前三三〇八年に治世を始めたとされる伝説上最初の中国の帝王)の時代からこれまでに三六もの王朝を数え、さまざまな筆舌に尽くしがたい動乱が起こってきた。ひとりわが国においてのみ、天地の始めより今日まで、皇統は不可侵のままである。
— 『神皇正統記』
←http://ja.wikipedia.org/wiki/神皇正統記
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